考古学の発掘調査事例から衣食の実態を明らかにしていくことは非常に困難である。土器や石器のような無機質の遺物であれば腐朽しないで土中に遺存するが、衣食に関係する遺物の多くは有機質のため土中に依存せず考古学資料として発掘により出土することはまれである。しかし、平安時代であれば文字資料あるいは絵巻物などから当時の様子を推定復元していくことは可能である。

文字からわけ

柳之御所遺跡は保水性の高い粘土質の層があるため堀跡・井戸状遺構から、木製品などの有機質の資料が多く出土している。町教育委員会が実施した1991(平成3)年度の第30次調査で井戸跡の埋土中から立烏帽子が出土している。中世社会において烏帽子は社会的身分の標識であったことが知られており、烏帽子の出土はその所有者の社会的階層を類推させる重要な資料となる。一般に烏帽子は、公家階級が主に身につけた立烏帽子と武士階級が使用した折烏帽子に大別され、古代において立烏帽子は禅譲後の上皇以下、殿上人以上が使用したとされている。

1990(平成2)年の第28次で堀内部中心建物群隣接地の井戸状遺構のひとつから物差し、糸巻などとともに折敷の底板に織物の発注リストと考えられる「人々給絹日記」と記された墨書折敷が出土している。この資料は平泉館における儀式にさいし、一斉に給付される装束の発注リストと考えられ、狩衣・水干・袴・袍などに仕立て上げられ折敷の表面に記された人々に給付されたと考えられている。糸巻・物差し等が堀内部地区から出土していることから、染色・織布・縫製等にかかわる工房の存在も推定されている。裏面には、布帛の数量、赤根染・赤根染青などの色彩、カリキヌハカマ・カリキヌ・アヲハカマ・水干袴など衣服の種類など、服飾に関する記事が記されている。このように、柳之御所遺跡をからは断片的であるが当時の衣に関する考古学的な資料の出土がみられる。特に、赤根染と紺色は武士に好みの色とされており古来から鎧等の武具の色に使用されていたことが伝えられている。他に装身具類としては、木製の櫛・扇・下駄等が出土しており当時の日常生活の一端がうかがる。

食に関する考古学資料も非常に少なく、当時の食生活を復元することは難しい。柳之御所遺跡を含む平泉遺跡群の遺跡からは、しばしば排泄の際に使用されたと推定される籌木(クソ箆)等が土坑から出土することがあり、これらが出土する土坑をトイレ状遺構と推定する場合がある。土坑の形態は、開口部が80~160cm、深さが90~330cmとかなりのばらつきがある。出土する籌木には、凡そ15・~30・程度の細長い薄い杉材が使用されており、一つの土坑から2000点以上出土している例もある。排泄に関わっての籌木の使用は近代以降まで民俗例によって知られており、類似の形態をもつ遺跡からの出土例は ほぼ同様の機能をもっていたと考えられる。籌木が出土する土坑が必ず便所(トイレ)遺構として認定可能かどうか、例えば屋内で排泄時に使用した籌木を清箱のようなものに廃棄し、さらにそれを屋外の土坑に二次的に廃棄したという状況も想定しておく必要がある。さらに、籌木が出土した土坑の埋土の寄生虫卵分析・花粉分析等の結果から、当時の食生活の実態や衛生状態が推定されている。回虫・鞭虫が大量に検出され野菜類を生に近い状態で食していたこと、肝吸虫・横川吸虫の検出はコイ科やアユのような淡水魚を、日本裂頭条虫(サナダムシ)の検出はサケマス類を生食していたことが推定されている。花粉分析で大量に検出されたヒユ属・アカザ属は、薬用として利用されていたことが考えられている。埋土中からは、ウリ科の種子も多量に検出されており、当時これらのメロン・マクワウリ・キュウリ、ヒョウタン・フクベ・ユウガオ等が食用として供せられていたことが推定されている。台所用具としては、器あるいは煮たきに使用された用具として石鍋・内耳鉄鍋、及び容器類として陶磁器類・木製容器類等が、食膳具としてかわらけ・大小の杓子・折敷・箸等、発火具として火きり板・火きり杵等、提子の金具類が出土しており、堀内部地区において食膳に関わることが行われており、またその施設の存在も予想される。

住環境については、実際の検出遺構と出土遺物による両側面からのアプローチが可能である。柳之御所遺跡内では四面に庇をもつ一般に格式の高いとされる大型の掘建柱建物が多く検出されており、当遺跡が平泉遺跡群のなかでも異彩をはなっている。堀内部地区に限定すれば、塀に囲まれた内部に園池が設けられ、その北側に建物が展開するという状況が現在までの調査で明らかにされている。1990(平成2)年の(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターの調査で井戸状遺構から寝殿造の建物の一部を描いた墨書折敷が発見されており、柳之御所遺跡内にも寝殿造の建物が存在した可能性が指摘されている。しかし、現在までの調査では、個々の大型の建物は存在するもののそれらを連結する回廊が未検出であり典型的な寝殿造を想定することは困難である。破風板、格子、部材板、壁土、磚等、当時の住環境を示す資料が断片的であるが発見されている。