遺構

地鎮具埋納遺構(28SX1)

1990(平成2)年に実施された柳之御所遺跡第28次調査で、堀内部地区の中心建物群が分布する一角から、12世紀の地鎮具埋納遺構が検出された。 地鎮具埋納遺構は、平面形が長方形で60㎝×95㎝、深さが32㎝の土坑である。この土坑の内部には、地鎮に使用した密教法具である輪宝と厥・かわらけ8枚が正位の状態で土坑の南東側半分の南西寄りの底部に埋納されていた。輪宝は一部のみ残存しており、中心にある円孔の部分に厥を直立に突き刺して使用したものと推定される。かわらけは、すべて小型の手づくねかわらけが使用されている。地鎮にさいし輪宝1枚と厥1本が用いられていることから天台宗に関連する地鎮とされている。
地鎮・鎮壇具の埋納は、遷都あるいは建物の建築に際し、古来からひろく行われていたことが知られている。柳之御所遺跡の場合は、堀内部地区のほぼ中央部に位置し、池跡と主要な建物跡が分布する周辺から検出されていることから、特定の建物に対してではなく、ある一定の区域に対する地鎮をおこなったものと推定されている。

便所(トイレ)遺構

チュウ木

平泉遺跡群あるいは柳之御所遺跡の内部から検出された土坑のなかに、便所として直接使用されたかあるいは、間接に人間の糞尿を処理するために使用されたと推定される遺構がある。チュウ木と呼ばれる排泄の際に使用されたと考えられる細長い板材を出土したり大量のウリ科の種子や回虫・鞭虫・日本海裂頭条虫といった寄生虫卵が高密度で検出されている土坑である。これらの土坑類は、どの段階かで何らかのかたちで人間の排泄活動が介在した遺構と推定されている。
回虫・鞭虫が大量に検出されたことから、野菜や野草を生ないしは十分な熱を加えられない状態で食していた。肝吸虫・横川吸虫の検出からコイ科やアユのような淡水魚を生あるいは十分に火を通さずに食べていた。日本海裂頭条虫(サナダムシ)が高密度で検出されていることからサケ・マスを生に近い状態で食べていた等、埋土の分析結果から当時の食生活の状況が推定されている。花粉分析・種子同定などの分析ではヒユ属・アカザ属類が大量に検出されており、これらの寄生虫により起こされる腹痛や虫下しの薬として服用されていたと考えられている。

道路状遺構(21SC1)

道路状遺構

堀内部地区の南端区域から、堀に平行して道路と推定される遺構が検出されている。ほぼ南北にわたり、延べ50数mにわたって検出されている。両側には幅0.24~0.84m、深さ0.40m前後の側溝と思われる溝が道路に平行している。この両側の側溝を含めた、道路幅は北端で10.2m、南端で7.6mとなっており北側にむかうにつれやや広くなっている。道路側溝は礫やかわらけが投棄されており、一時期ゴミ捨て場的に使用されたと考えられ、その後人為的に埋め戻しが行われ、ある時点で道路の機能を失っている。

井戸・井戸状遺構

井戸状遺構

柳之御所遺跡の調査では多くの井戸状遺構が検出されている。井戸側等の施設を持つ恒常的な井戸とは区別して、柳之御所遺跡の調査では素掘りで枠等をもたない大型の土坑に対して井戸状遺構の名称を使用している。堀内部地区では、井戸側を用いた通常の井戸と推定されるもの2基、井戸状遺構が現在までの調査で30数基検出されている。 井戸状遺構には、その形状規模等にバリエーションがあり画一性は認められない。多くの井戸状遺構は、井戸側に支えられた状況が認められなくても、壁に崩落の跡が見られない素掘りのもので短期間に人為的に埋め戻されたことが埋土の観察から知られる。廃棄さた大量のかわらけをはじめ各種の木製品が出土している。

園池跡

園池跡

堀内部地区の正方位の軸線を持つ南北棟の建物群の南側に広がっている。二時期の変遷が想定されている。最大幅32.4m±、最大長40.5m ±で馬蹄形を呈しており、底面には礫が敷かれている。この園池には、付属施設として景石、北側に導水溝、南側に溝、西側に排水溝が見られる。 平泉遺跡群の主要遺跡には池跡を持つ遺跡が多く見られる。中尊寺には三重池・大池、毛越寺には弁天池・大泉ヶ池、観自在王院には舞鶴ヶ池等が検出ないしはその存在が文献等で確認されている。

遺物

かわらけ

かわらけ

素焼きの土器で、平泉遺跡群では普遍的に出土する遺物である。特に、柳之御所遺跡堀内部地区からは現在までの調査で10数トンに及ぶ大量のかわらけが出土している。ロクロを使用した大小の皿、ロクロを使用しない所謂手づくねかわらけ大小によって構成されている。これらに加えて、内折れ型のかわらけ、柱状高台など特殊な形態のかわらけが若干認められる。ロクロ使用かわらけは在地のの土師器との係りとして、ロクロ未使用の手づくねかわらけについては京都系とされて、その技術等の系譜が追求されている。
出土するかわらけの大半は12世紀後半期のものであるが、近年の調査成果等からは12世紀前半代のものが中尊寺跡金剛院境内、13世紀以降のかわらけが白山社跡・志羅山遺跡等で発見されている。

中国産陶磁器

中国産陶磁器

平泉町内の市街地では、重複する藤原氏関連の平泉遺跡群の多くから、少なからず青磁・白磁などの中国産の陶磁器が出土している。しかし、その内容及び出土量は柳之御所遺跡が群を抜いており、一般の遺跡との顕著な違いを見せている。これらの遺物が平泉遺跡群から出土する背景には、当時の奥州藤原氏の経済力が如実に反映していると考えられている。中国産陶磁器はその高級性・稀少性のため所有層が限定され、多くは輸入元の博多周辺、日本の政治経済の中心地であった京都、そして奥州平泉が主要な供給先であった。
柳之御所遺跡においては、白磁が卓越しており、なかでも白磁四耳壷の出土の割合が圧倒的に高いことが指摘されている。多くは12世紀後半代のものである。

国産陶器

常滑産

平泉遺跡群からは、常滑産・渥美産の大形甕類が多量に出土しており、当寺の奥州平泉が最大最良の消費地とされていたことが、遺物の出土量や器種構成などから指摘されている。高級な常滑産の陶器、植物文様を主要なモチーフとした刻線文様で描かれた渥美産の陶器など、特別製の製品が流入しておりその購買力の高さがうかがわれる。

烏帽子

烏帽子

1991(平成3)年に平泉町教育委員会によって行われた柳之御所遺跡第30次調査で、30SE2井戸跡から出土している。共伴遺物から12世紀後半代の年代が与えられている。井戸埋め戻しの際に廃棄されたと推定されている。極細の絹で縒り、外面に漆と推定される樹脂の塗布が認められる。内面への樹脂の塗布が認められないことから、立烏帽子の可能性が考えられている。烏帽子は大きく、折烏帽子と立烏帽子に分かれており、細部の形態・加飾法・着用例等が、時代及び使用階層を反映している。京装束の普及に伴い12世紀頃から漆の厚薄から分化が生じ、立烏帽子は殿上人以上の所用とされている。当該遺物は、そのまま切り取りされ出土状況をそのまま伝えている。

吉州窯系陶器片

吉州窯系陶器片

トイレ状遺構である56SK31から出土した、約4cm四方、厚さ1cm前後の陶器片です。平泉遺跡群では初の出土です。吉州窯は、中国の南部、江西省のほぼ中央部に位置します。
吉州窯陶器には様々な種類がありますが、本資料は白地鉄絵の陶器で、器種は瓶類と考えられます。日本では草戸千軒町遺跡(広島県福山市)、平安京跡(京都市)、博多遺跡群(福岡市)などで出土していますが、いずれも13~14世紀が中心で、12世紀後半にまでさかのぼる陶器片は貴重な資料といえます。

折敷

堀跡である56SD39のT4から出土したものです。大きさは縦26cm、横39cm、厚さ2.4cmを測り、縁が1片欠けていることを除けば、ほぼ完全な状態で残存します。縁には1片あたり3箇所の木釘が、底板の裏面には十字及び楕円状に合計28箇所の釘穴が見られます。推定の域は出ませんが、今回出土した折敷には木製の脚がついていた可能性があります。
また、底板の表面及び裏面には、刃物状の物でつけられたと思われる傷跡が多数認められます。折敷として使われた後、まな板など別の用途に転用された可能性もあります。

1186年に伐採された材を用いた折敷

折敷

井戸跡である52SE8から出土したものです。大きさは最大長25cm、最大幅13cm、厚さ0.5cmを測ります。材質はスギで、部分的に炭化が認められます。気象条件によって木にできる年輪幅が違うことに着目し、その幅によって年代を特定しようという年輪年代測定を奈良文化財研究所(旧・奈良国立文化財研究所)の光谷拓実氏に依頼したところ、この折敷は1186年に伐採された木を使っていることがわかりました。柳之御所遺跡がいつまで存在したかを知る上での貴重な資料の一つといえます。

『磐前村印』印章

印章

井戸跡である50SE3から漆布で覆われた白磁四耳壷とともに出土したものです。大きさは4.7cm四方、高さ3.7cm、重量は167.4gを測ります。「村」印としては、日本で初めての出土例です。朱肉も僅かながら残っており、この印が実際に使用されていたことを示します。『磐前村』については、いくつかは説は出ていますが、詳しくは不明です。

穴あき石

穴あき石

井戸跡である52SE8から出土したものです。大きさは長さ39cm前後、幅25cm前後、厚さ10cm前後を測ります。石の材質は粘板岩で、片面に貝の巣穴が認められます。類例のものが毛越寺庭園にみられ、庭園における荒磯を表現する風景の道具立てとして使用されたものと考えられています。柳之御所遺跡で見つかった穴あき石も同じ用途で使われたものかもしれません。