まず、柳之御所遺跡の構造に係わる最も主要な要素である堀の調査が挙げられる。堀跡の調査は(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターによって行われた緊急調査時に確認されている。遺跡の南端部分及び東側について調査が行われ、特に南側では二重の堀が確認されている。なお、これらの堀は遺跡の西側では猫間が淵に並行し無量光院と対峙する遺跡北東部分で屈曲し北上川にぬけていくことが、航空写真の判読などから推定されており、これを実際の発掘調査において検証していかなければならない。また、堀の調査と並行して土塁の存在を明らかにしなければならない。平泉遺跡群の主要遺跡である無量光院跡・毛越寺跡・観自在王院跡・白山社跡・伽羅之御所跡等では土塁・堀によって遺跡が区画されている例が確認されており、柳之御所遺跡においてもその存在が予想される。

また、堀に付随して、過去の調査で遺跡東側では北上川の沖積地に向かう橋と、南側では伽羅之御所跡に向かう橋跡が検出されている。遺跡の中枢部を囲む堀、隣接する遺跡との関連を考慮すれば、西側には無量光院、北側には柳之御所堀外部地区とを連絡する橋の存在が予想される。伽羅之御所跡と連絡する橋跡の前後(南北)には道路遺構が確認されており、これが遺跡の北側ではどのような状況になるのか、また堀外部地区で既に確認されている中尊寺方面から続くと推定される道路遺構がどのように柳之御所遺跡の堀内部地区に連絡してくるのか、当時の幹線道路が柳之御所遺跡内でどのような様相をしめすかが重要な課題となってくる。これは当時の町割に密接に関連してくることである。

堀内部地区の北側部分の多くが全くの未解明部分である。かつて、内容確認のために設定した試掘溝で大型の柱穴類が検出されており、中心建物群の北側に位置するこれらの区域がどのような展開を示すか柳之御所遺跡の性格を探るうえでも重要な地点となっている。園池の北側には四面に庇を持つ大型の建物群が複数検出されており、この区域周辺で柳之御所遺跡堀内部地区の中枢施設が展開していたことが、発掘調査で明らかになっている。さらに、寝殿造の建物の一部を描いたと思われる墨書折敷が出土しており、堀内部地区にも類似の建物が存在したことを予測させる。ただし、現在までの調査では個々の大型の建物跡の検出は見られるものの、寝殿造りを彷彿させるような建物を連結する回廊等の検出はなされていない。掘立柱建物という遺構の性格上共伴遺物が少なく、個々の建物の性格機能を推定することは非常に困難であるが、既往の調査成果の再検討を行い、建物群の構成構造等を明らかにしなければならないと考えている。

平安時代中期に成立した『宇津保物語』は当時の貴族社会を写実的に描写した物語である。その中に紀伊国の神南備の種松という長者の屋敷の様子が描かれ、三重の垣に囲まれた館の内部に作物所や絵師・手師などの職業集団が居住し生産活動を行っていたことが描写されている。柳之御所遺跡の堀内部でも、技能集団の存在を示す遺物の出土は見られるが、遺構としての確認までにはいたっておらず、工房跡等の検出の可能性も模索していかなけばならない。

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12世紀都市平泉南辺の状況

一関遊水地事業の一環の太田川築堤事業に関わる大規模な発掘調査(志羅山14次、25次、66次、74次、泉屋7次、10次、11次、13次、15次、16次、19次) により、平泉南辺の様相が明らかに成りつつある。
ここでは、それに周辺の調査の事例を加え、12世紀の町割りについて考えてみたい。


12世紀の町割り

  1. 太田川の旧河道
    12世紀の河道は明らかでないが、明治時代に作成の河川台帳付図( 測量した地図) に記載された河道を示した。
  2. 沖積低地と段丘の境界
    沖積低地と段丘の境界のラインである。遺跡の範囲もこのラインを境界としている。
  3. 太田川に合流する沢
    志羅山から泉屋にかけて南東に流れる沢跡がある。12世紀段階にはかなり埋没が進んでいる。埋没層の下部には十和田a火山灰を含む。上流部では12世紀に埋立整地が行われている。下流部には埋立整地は行われていない。
  4. 毛越寺、観自在王院の南辺を通る道
    毛越寺、観自在王院の南辺を通る道が街を横断する形で、東側まで続くと推測される。町道立石線はその痕跡である。また現在の国道4号線の東には道が続かないが、地籍図にその痕跡が読み取れる。志羅山遺跡66次調査のSD10、SD17はその道路側溝と推測される。東側の泉屋遺跡3次調査の4号溝もこの道路側溝と考えられる。この道路では、対になる状態で道路側溝が検出されておらず、道の幅は不明である。道の軸方向は東西ほぼ正方位である。
    後述するように南北に走る12世紀の道はこの道を基準に設置されており、この道が都市計画の基準軸になっていると考えられる。また、この道が毛越寺造営時の都市の南辺であった可能性がある。
  5. 段丘の突出基部を切る道
    志羅山14次、46次、泉屋10次調査で検出された道である。段丘の突出基部を切る形で東西に走る。西側の段丘と沖積低地の境に沿って道が続く可能性もある。しかし現在のところその部分には発掘が及んでいないため、その有無は不明である。段丘の突出部には12世紀の井戸が検出されており、屋敷があったと考えられる。重要拠点を占める格の高い屋敷の可能性もある。
  6. 毛越寺と観自在王院の間の道
    藤島亥治郎氏によって明らかにされた道、道幅100尺と設定されている。南に伸びるか否かは不明。軸方向はほぼ正方位。
  7. 観自在王院東辺の道
    本澤氏が指摘の方形区画の西辺をなす道。道幅100尺が妥当か。南に伸びるか否かは不明。軸方向はほぼ正方位。
  8. 方形区画東辺の道
    本澤氏が指摘の方形区画の東辺をなす道。志羅山18次、22次、47次調査で道路側溝を検出した。道幅は50尺である。方形区画より北に伸びるかどうかは不明である。また④の道より南に伸びるか否かも不明である。軸方向はほぼ正方位。
  9. 白山社参道の道
    白山社に至る道で、現在も道として生き残っている。道幅は33.3尺と推測される。④の道より南にも同じ軸方向の道があり、沖積低地境付近まで、角度を変えずに続いていたと考えられる。軸方向はN-15°-Eである。
  10. 志羅山遺跡46次、66次、74次調査で検出された道
    志羅山遺跡46次、66次、74次調査で検出された道である。④の道より南では軸方向がほぼ正方位、北では約N-15°-Eと変化する。道幅は33.3尺と推測される。南は⑤の道にぶつかって終わる。北は現在調査中の志羅山80次調査区で検出されている。それより北は現在のところ不明である。
  11. 道の間隔から存在が推測される道
    ⑥~⑫の道の間隔から存在が推測される道である。この道の存在すべき部分には調査が及んでいないため、存在の有無は全く未確認である。よって軸方向などは不明である。
  12. 柳之御所に至る道
    泉屋13次、16次で道路側溝と考えられる溝が検出されている。これを延長すると柳之御所遺跡の南側突出の堀にかかる橋、そして道路跡につながる。泉屋3次調査検出の溝も、この道の道路側溝の可能性がある。道幅は66.6尺と推測される。軸方向は約N-11°-Eである。
  13. 屋敷を区画する溝
    ⑩の道から東の志羅山74次、泉屋13次、泉屋16次調査でほぼ一直線上に溝が検出されている。道路の側溝のように溝が2条平行しているものではなく、屋敷地を区画する溝の可能性が考えられる。だがこの溝に沿って通路があった可能性は十分にある。この溝のラインにほぼ平行に、12世紀の建物が連なっているのが看取できる。溝の軸方向は東端でずれるが、約E-3°-Eである。またこのラインは④の道から400尺の距離にある。

各道路幅と道路間の寸法について

道路幅と各道路間の寸法を第1図に記す。ここでは藤島亥治郎氏が毛越寺、観自在王院の計画割りの考案の際に用いた寸法、1尺=現尺の1.0093尺(0.3058m)を用いている。図に記した寸法は道④のライン上での寸法である。即ち町割りの際にはこの④の道を基軸にしたと推測されるのである。
⑥と⑦と⑧の間、⑨と⑩の間、⑪と⑫の間はそれぞれの道幅の長さを加えずに、400尺を測ることができる。しかし⑧と⑨、⑩と⑪の間はそれぞれ⑨、⑪の道幅を加えて400尺である。当初は⑧と⑩、⑩と⑫の間を800尺で設置し、その後に道を配したのであろうか。そうであれば、⑨、⑪は後に加えられた道ということになる。いずれにせよ、平泉の都市計画の基準の長さの一つに「400尺」が用いられていることが看取される。④の道から⑬のラインまでも400尺である。
また道幅は100尺を基準に、その半分の50尺、2/3の66.6尺、1/3の33.3尺が用いられていると考えられる。