柳之御所遺跡の調査については、昭和初期から小田島禄郎が踏査を行い、その際に現柳之御所遺跡内から瓦片等を採集しており、その存在は古くから知られていた。その後、考古学的な調査は1950年代後半の藤島亥治郎、板橋源氏等の調査までまたなければならない。1980年代には、町に専門の文化財調査員が配置され開発を前提とした緊急発掘調査への対応と、開発事業との調整等の体制が確立された。

1988(昭和63)年に、平泉町教育委員会と(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターによって開始された一関遊水地・バイパス建設に伴う柳之御所遺跡の緊急発掘調査は、さまざまな面において平泉遺跡群発掘調査史のなかに一大画期として位置づけられるものである。柳之御所遺跡ついては、従来藤島・板橋氏等による点的な調査が主であり、遺跡としての広がりを把握するには十分な成果があげられなかった。しかし、一関遊水地・平泉町バイパス建設事業に伴う緊急発掘調査は、約5万㎡にも及び、柳之御所遺跡の重要性を裏付ける重要な遺構・遺物の発見がなされた。調査の指導助言のために設置された、平泉研究の権威藤島亥治郎氏を委員長とする平泉遺跡群発掘調査指導委員会は、当遺跡を『吾妻鏡』に見える奥州藤原氏三代秀衡の政庁跡「平泉館(ひらいずみのたち)」であるとの見解を示した。相次ぐ重要遺構・遺物の発見は、研究者のみならず一般世論をも喚起し、遺跡の重要性が広く認知されると同時に保存の声が挙げられた。建設省は、遺跡の重要性に鑑み、バイパスのルートを変更するという大英断を下し、遺跡の保存と治水の両立を図る工事計画の変更を打ち出した。

1997(平成9)年3月には、国指定史跡として官報告示され広く国民の間に周知された。岩手県では、将来的に史跡整備を行い遺跡の保存と活用を計画しており、1998(平成10)年から現地平泉町に柳之御所遺跡調査事務所を開設し、史跡整備に資する情報を収集するための学術調査を開始し現在に至っている。本格調査の開始と同時に、考古学・建築学・文献史学等の専門家から成る「柳之御所遺跡調査研究指導委員会」が設置され、柳之御所遺跡を主とした平泉遺跡群の発掘調査及び平泉文化に係わる調査研究への指導助言を得ることになった。

1998(平成10)年に開始された発掘調査は3年ごとの区切りとし、現時点で第4次まで12ヶ年の発掘調査計画の大綱が立てられている。堀内部地区を対象とした第1期の整備完了を2009(平成21)年に予定しており、それに向け堀内部地区の未調査区域と過年度の調査部分において、再検討を要する部分についての調査を行っている。