従来の平泉文化ないしは奥州藤原氏に関する研究は、金色堂や諸美術工芸品等からの文化史的な側面から論じられたり、あるいは人種論を含めた中央対地方という相剋の歴史が前面に打ち出され、奥州藤原氏権力の性格論が主に論じられてきた。

1988(昭和63)年以降は、それまでの平泉遺跡群の発掘調査および柳之御所遺跡の緊急調査による考古学的成果が有機的に論じられるようになり、文献史学の研究者にもその成果が受容されるようになってきた。その一例として斉藤利男氏による『平泉-よみがえる中世都市-』をあげることができる。都市平泉の構造を論じた斉藤氏の一連の研究は、平泉都市研究のひとつのモデルを明示し、その後の研究の指針を提示している。

従来までの発掘は点的な調査であったが、最近ではこれまでの点的な調査結果が面的に追及可能となってきたところに最大の成果があり、個々の遺跡の調査成果を平泉市街地全体のなかで考察することが可能となってきた。とくに、志羅山遺跡・泉屋遺跡の調査は、都市構造の中核をなす道路網の発達および町割の研究について、近年最大の成果となっている。さらに『吾妻鏡』に記された内容との対比を含め、近い将来、往時の町割り復元も可能となってくるのではと思われる。なお、1999(平成11)年から開始された一関市による中尊寺領骨寺荘園遺跡の調査は、奥州藤原氏の経済基盤あるいは支配構造を明らかにしていくうえで、各方面から期待されている。

現在の考古学的調査が開発等の関係で市街地が多く、この範囲が12世紀の都市とほぼ重複し、都市構造の解明は一段の進歩を見せている。一方、当時の民衆の生活を伝える12世紀の遺跡調査はほとんどなされていない。すなわち、当時の民衆の生活の地は現在の市街地外に求められ、今後この方面での調査研究が必要となってくる。最近では平泉以外でも12世紀の遺物を中心とした発掘事例の報告がなされており、奥州藤原氏の支配の広がりを知るうえでも隣接市町村を含めた周辺地域の調査の重要性が増すものと思われる。

今後とも、関連諸分野との学際的な協力のうえに平泉文化研究を位置づけ、奥州藤原氏あるいは平泉文化解明を推進していかなければならない。

中尊寺領骨寺荘園遺跡