『陸奥話記』によれば、俘囚長安倍氏は武力を背景に他の在地勢力を圧倒し、奥六郡(伊沢・和賀・江刺・稗抜・志波・岩手)に対する支配権を確立していた。しかし、10世紀頃の安倍氏の地位は、朝廷のエミシに対する伝統的政策によって与えられたものであり、その支配が及ぶ範囲も奥六郡内に限られていた。

11世紀になると、安倍頼良は税の貢納を行わず、六郡の南限の衣川を越えて陸奥守と戦う一方で、藤原経清など国衙の在庁官人と姻戚関係を結び、基盤の強化を図った。これに対し朝廷は、源頼義を陸奥守として下向させた。さらに鎮守府将軍も兼ねることになった頼義と安倍氏の戦いが前九年合戦(1051~1062)である。戦いは長期にわたったが、出羽山北三郡(山本・平鹿・雄勝)の俘囚主清原氏の参戦により戦いは終結し、安倍氏は滅亡した。この戦いは、源氏を棟梁とする東国武士団が在地の武士団に勝利したものといえるが、その勝利は在地豪族清原氏の加勢なくしてはあり得ないものであった。

清原氏は前九年合戦勝利の論功行賞により鎮守府将軍に任じられた。これは俘囚としては初の例であり、これにより奥羽両国の軍事支配権を朝廷より公認されたことになる。その後、清原氏は、一族の内紛に陸奥守源義家が介入する後三年合戦(1083~1087)が起こり滅亡する。その結果、安倍氏・清原氏の遺領を継承したのは藤原経清の子清衡であった。

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