初代清衡は後三年の役後しばらく江刺郡豊田館にいたが、11世紀末か12世紀初め頃、奥六郡の南限の衣川を越えて平泉に本拠地を移した。『吾妻鏡』によれば、清衡の支配領域は南は白河関から北は津軽の外が浜まで一万余村であったという。朝廷は、武士団の棟梁に成長した清衡を主に北奥諸郡の支配にあたらせた。清衡は、租税や交易物の貢納を義務づけられる代わりに、これらの地域に対する軍事・交易の権限を独占的に与えられ、他の地方武士には見られない強大な権限を手に入れた。

北方に対する広範な権限を朝廷から与えられた藤原氏だが、平泉以南についてはさほど公的な権限はもっていなかったと考えられている。二代基衡は六郡押領使・出羽押領使に任じられたが、さらに中央の権門や院近臣藤原基成との結びつきを強め、奥羽両国全体へ公的権限の拡大を図った。その結果、藤原氏の影響力はしだいに国府に浸透し、国府に強い影響力を与える基礎がここにつくられた。

1170(嘉応二)年、三代秀衡は鎮守府将軍に任じられ奥羽両国の軍事指揮権を得た。さらに1180(養和元)年には陸奥守に任じられた。地方武士が国守になった例はなく、これによって秀衡は、奥羽両国を半ば独立国的に支配するにいたった。奥州藤原氏は三代秀衡の時代に全盛期を迎えた。

秀衡の時代は源平争乱の時代でもあった。平氏追討の戦いで功を成した源義経は、兄頼朝に追われる身となり、秀衡を頼って平泉に逃れた。1187(文治三)年、秀衡は死に臨み、四代泰衡に義経を主君とし仕えるよう遺言するが、逆に泰衡は義経を襲い自害させた。1189(文治五)年のことである。これを知った源頼朝は、同年、義経をかくまったことを理由に藤原氏討伐の兵を挙げた。

頼朝の進軍に対し敗北の報を受けた泰衡は、平泉館に火を放ち蝦夷島をめざし逃亡した。平泉に進駐した鎌倉軍は、さらに泰衡を追って行軍し、志波郡陣ヶ岡で出羽方面からの部隊と合流するが、その数は28万余騎にも及んだという。泰衡は家臣河田次郎の手によって殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡した。この一連の戦いが奥州合戦である。