曲水の宴の舞台 通り水

ここでは、平泉に形成され残されている文化について、時代を追って概説します。

清衡の時代

後三年の役後平泉へ移った清衡は、中尊寺の造営を始めた。多宝寺、釈迦堂、頼朝が鎌倉に建立した永福寺二階堂のモデルとなった二階大堂、そして大伽藍の最後に完成したのが荘厳をきわめる金色堂であった。『吾妻鏡』によれば、その規模は寺塔40余宇、禅坊300余宇といわれる。

金色堂完成の二年後、1126(大治元)年、清衡は中尊寺に僧を集め大規模な落慶供養を行った(注;この時の落慶供養は毛越寺のものであるとする説もある)。清衡はその際の供養願文において、白河法皇の恩に報いるために鎮護国家の寺院としてこの寺院を造営したことをのべている。中尊寺の造営により京都の僧や仏師、工人が平泉へ集住するようになり、平泉と京都との連携が深まっていった。清衡の時代に、京風文化、特に仏教文化移入の基礎ができあがった。

基衡の時代

基衡は毛越寺の造営を進めた。円隆寺、常行寺、嘉祥寺など、その規模は堂塔40余宇、禅坊500余宇といわれる。浄土庭園に、東西の翼廊と経蔵、鐘楼をもつ金堂を配し、池の南に南大門をおく伽藍配置であるが、これは白河法皇が建立した法勝寺を模したものと考えられている。基衡の妻も毛越寺の隣に観自在王院を建立している。

また、基衡は京都の仏師運慶に毛越寺本尊薬師如来像を注文しているが、あまりに見事なもので、鳥羽上皇はこれを京都の外に出すことを禁じた。悲嘆した基衡は関白藤原忠通を頼り、ようやく平泉に運ぶことを許されたという。基衡の財力の豊かさと摂関家との結びつきの強さがうかがえる。

一方、基衡は毛越寺を中心とした市街地を建設した。毛越寺の一角は、奥の大道の平泉への入口に当たり、周辺には数十町に及ぶ街路を造り、数十宇の高屋を建て、数十宇の車宿もあったという。毛越寺周辺では牛車が行き交い、浄土庭園では遣水を利用して曲水の宴が行われた。基衡の時代は、仏教文化を基盤として都市平泉を形成し、貴族文化も取り入れた時代といえる。

秀衡・泰衡の時代

秀衡は市街地をさらに北東の北上川寄りへ拡大した。秀衡が建立した無量光院は、関白藤原頼通が宇治に建てた平等院鳳凰堂を模したもので、発掘調査によりそれよりさらに一回り大きかったことが分かっている。北上川寄りに建立したのは、宇治川を意識してのことと考えられる。

『吾妻鏡』によれば、「金色堂の正方、無量光院の北に並べて宿館を構える。平泉館と号す。・・・・無量光院の東門に一郭を構える。加羅御所と号す。秀衡の常の居所なり。」とある。無量光院の北に平泉館があった。この平泉館は平泉における政庁と考えられており、無量光院や柳之御所遺跡周辺は陸奥・出羽両国の政治の中心地であった。柳之御所遺跡の発掘調査では、大量のかわらけが出土しており、京都と同様に儀式や政治に付きものの宴会が頻繁に行われていたことが分かっている。

奥州藤原氏の全盛期を迎えた秀衡の時代は、京都の仏教文化や貴族文化を基盤としながらも、中国陶磁器や宋版一切経に見られるように、各方面との文化的交流があったことを知ることができる。