奥州藤原氏が広範な交流・交易を行っていたことは古くから知られている。都の文化を大量に摂取していた藤原氏にとって、まずもって、京都と平泉を結ぶ交通路が最も重要で、この交通路は、藤原氏のいわば政治的・文化的動脈の役割を担っていたのである。

奥州藤原氏が都で調達した仏像、仏画、教典などさまざまな工芸品や織物、その資金としての砂金などの運搬のほか、朝廷に貢進する物品、中央貴族や有力な社寺に年貢として届ける物品の搬送などがあり、陸路は言うに及ばず海路も頻繁に利用された。『吾妻鏡』によれば、二代基衡は、毛越寺金堂円隆寺本尊の造仏を依頼するにあたり、支度料を搬送するため、陸路のほかに海路を用いたことを伝え、奥州藤原氏が海船を使用して大量の練絹を送ったことが記されている。

当時の運搬ルートは、どのようなものであったであろうか。『中右記』に、初代清衡の時代に越後で年貢の品が地元の役人によって横領されるという事件があったことを伝えており、当時の大道である日本海ルートが最初から利用されていたことが知られている。その一方、藤原氏は、愛知県の常滑窯・渥美窯などから大量の陶器を搬入していることからも分かるように、太平洋ルートもまた盛んに利用していた。また、藤原氏は中国産の陶磁器、とくにも白磁の四耳壺を多量に移入しており、九州の博多に連なる運搬ルートも既に開拓していたのである。

太平洋ルートの具体的な物資の流通システムについては不明な点も多いが、北上川の河口部にあたる石巻湾が平泉側の起点であったであろうことは想像に難くない。この北上川河口近隣で発見された石巻市の水沼窯は、12世紀前半に開かれた窯跡で、渥美焼を写した陶器が焼かれており、藤原氏が、渥美焼を地元で作るために工人を招聘して開窯させたと考えられている。

平泉藤原氏は、南に向けた交流だけでなく、北に向けた交流・支配も行っている。初代清衡は、陸奥国の入り口である白河の関から津軽半島の陸奥湾側にある外が浜までの間に、一町ごとに笠卒塔婆を立て、その面に金色の阿弥陀像を描かせたという。藤原氏は安倍氏から奥六郡を引き継ぎ固有の領土とするが、同時にその北の糠部や津軽、東の閉伊に支配を及ぼしたとされる。近年、大石直正らは平泉に直結する出土遺物の分布状況をもとに、津軽地方を含む北奥が、歴史上陸奥国の一部に編成されたのは藤原氏の力によるもので、12世紀段階にはその強い支配下にあったと主張している。

『吾妻鏡』によれば、二代基衡が京に送った支度料のなかに鷲の羽とアザラシの皮が含まれている。この鷲とアザラシは北海道の産物であり、藤原氏は北奥を介してその地にやってくる北海道の住人から鷲の羽やアザラシの皮などを入手し、都に送っていたのであるまた、初代清衡は(中尊寺)伽藍の落慶供養にあたって、京の文筆家に依頼し、有名な「落慶供養願文」をささげている。清衡はこの願文のなかで、天皇・上皇の恩のおかげで「粛慎悒婁之海蛮」は太陽に向かう葵のようになった、そこで「羽毛歯革之贄」をとどこおりなく都に送ることができたと述べ、自らが、北方の人びととの交易活動を統括する立場にあることを説明している。

藤原氏は、北奥地方を支配下に治め、この地を介在して対北方交易を積極的に展開し、自ら富の源泉の一つとしていた。しかも、藤原氏はその統括した交易活動をもとに、貢物を朝廷に進上する地位にあったとされ、このことは、朝廷をも含む当時の支配層の間に広く認められていることであった。