現在の平泉

平泉文化を代表する中尊寺金色堂は、われわれが世界に誇りうる文化財である。多くの人びとは、このように華麗な建造物や工芸品が12世紀の平泉にあったことに驚きを感じている。奥州藤原氏の滅亡後、平泉にはその政治的・経済的・文化的後継者は全く存在しなかった。しかも、平泉以前の東北地方は、遅れた地方であると見られていたのである。

平安後期における律令制の退潮とともに、越後における城氏、加賀・越前における富樫氏、肥後における菊池氏など、新たな地方勢力が起こってきていた。それらは、すべて自らを中央権門の後裔として位置づけていたのである。

平泉文化の動脈 北上川

日本史における平泉文化の意義について、三つの観点から提示しておきたい。

ひとつは、中央政府から独立的な地方政権の出現ということである。『吾妻鏡』には、平泉に陸奥国の計帳がおかれていたとあり、このことが、平泉が東北一帯を支配していたことの最大の根拠となっている。一方、陸奥国府はこの時期なお機能していたことや、奥州藤原氏が秀衡が陸奥守に任命されていた時代の二年間を除き、公式には軍事・警察権を行使したに止まることから、平泉の公的権限は独立的と見なせるほどのものではないとの意見もみられる。

どちらの見解が正しいか、また、その両方が正しいのか、すぐに判断することは困難である。この問題は、平泉政権の独立性をどのように判断するかによるものである。その答えは、地中にあると考えている。そのため、発掘調査による解決が期待されるところである。

ふたつめは、日本における中世都市の出現問題である。12世紀の国内においては、われわれが都市と呼びうるものはほとんどなかった。国内の数少ない都市と想定される場所は、京都、博多そして平泉である。

平泉は、他の都市に比してその後の開発がなかったため地下遺構の破壊が最小限に止まっており、日本における中世都市の復元の可能性を残している唯一の場所である。そのため、当時の平泉の状況を、多くの建物跡と中国陶磁をはじめとする多くの遺物から明らかにすることができる。

国宝金色堂

最後の課題は、平泉における仏教文化の繁栄である。最も有名なものは国宝金色堂である。内外に金箔がはられたこの堂内には、藤原四代の遺体が納められ、京都とも一線を画した平泉文化の存在を看取することができる。

このほか、中尊寺境内(特別史跡)、毛越寺跡(特別史跡)、無量光院跡(特別史跡)及び他の有形文化財など、所在する指定文化財のほとんどは、仏教文化に関連するものである。また、浄土庭園である「毛越寺庭園」(特別名勝、特別史跡と二重指定)は、平安当時の様相をそのまま残している重要な遺産である。

さらに、こうした仏教文化と平泉の政治姿勢の密接な関係についても注目しておく必要がある。12世紀における同様な建造物であるいわきの白水阿弥陀堂や豊後の富貴寺大堂の場合、それのみ単独で所在しているため、平泉の場合ほど政治的経済的背景を考察する材料が豊富ではない。

平泉の歴史的意義は、以上の三点として考えることができる。そこに、日本史上における古代から中世への移行を見い出すことができる。