1950(昭和25)年春、奥州藤原氏四代の遺体の調査が、医学・人類学をはじめ歴史学・生物学・植物学などの専門家16名からなる学術調査団によって実施された。この調査は、自然科学的手法を駆使した戦後初の学際的な調査として全国的な注目を浴びるところとなり、その結果は、多くの貴重なデータを集約し「中尊寺と藤原四代」として報告された。

この時期を前後して、従来からの歴史学上の争点の一つに、蝦夷(エゾ、当時エミシ・エゾは区別して考えられていなかった)に関する人種論が存在した。11世紀から12世紀にわたるほぼ100年の間、4代にわたって奥州を強力に支配してきた藤原氏の出身については、歴史学のみならず人類学の分野でも大きな関心が寄せていた。藤原氏は、安倍氏・清原氏と並んで蝦夷(エゾ)の種族であり、それゆえにアイヌであろうと考えられていたのである。

文献によると、初代清衡は「東夷の遠酋」「浮囚の上頭」と自称していた。また二代基衡は「匈奴」「奥のえびす」などと呼ばれ、三代秀衡も「奥州の戎狄」と称されていた。これらのことは、藤原氏が歴史上のいわゆる蝦夷(エゾ)の出身で、その支配者であるという意味に解され、一般の人たちはもとより、多くの研究者のあいだでもそのように考えられてきたのである。その一方、三代秀衡は鎮守府将軍に、後年はさらに進んで陸奥守に任じられていることから、これらの地位は、当時の位階制度では都の貴族にのみ与えられるもので、地方の、それも「蛮族」などに与えられるものではないことから、奥州藤原氏は、もともと都の貴族の出身だったと解釈する人たちも少ないながらも存在した。

藤原氏四代の遺体調査では、形質人類学の分野から長谷部言人・鈴木尚が参加し、その人種的帰属について検討を加えている。その報告のなかで、長谷部は、藤原氏の4遺体ともアイヌ的面影がないこと、だだし、このことからこの4人が蝦夷(エゾ)でないとはいえず、むしろこの地方の蝦夷(エゾ)の特徴を代表するものかもしれないと論じた。また、鈴木も、藤原一族は日本人的特徴がはなはだ多く、アイヌと考えるより日本人と考える方が穏当であると述べ、長谷部と同様、藤原氏はアイヌではない、とした。

ここで注目されるのは、長谷部が、蝦夷(エゾ)とは何か、という点は明らかにしてはいないものの、アイヌとは別の人種であろうと考えていたことである。蝦夷(エミシ、エゾ)に関する高橋富雄の一連の研究によれば、古代史上の蝦夷(エミシ)はアイヌかどうかにかかわる観念ではなく、あらぶる者たち、まつろわぬ者たちという王化にまだ浴さない東国・東北地方の方民たちを指した政治的・文化的な観念であり、近世の蝦夷(エゾ)=アイヌとは異なるもの、とされている。

1987(昭和62)年、埴原和郎は、鈴木が遺体から直接計測した頭骨のデータを用い、多変量解析法と呼ばれる一連の統計モデルを応用した分析を行い、奥州藤原氏がアイヌであることはほぼ完全に否定されること、藤原氏は元来東北に土着していたのではなく、もともとは京都出身である可能性が相当に高いことを公表した。また同時に、頭骨の計測値に基づく主成分分析の結果から、蝦夷(エミシ)についても言及し、蝦夷(エミシ)はアイヌかそれとも和人か、という議論は日本人の形成過程を無視したもので、古代史上のエミシは、現代的な意味でのアイヌでも和人でもない、と述べている。つまり、アイヌと和人はともに縄文人を祖先とするが、渡来人の影響を強く受けたか否かによって分離してきたのであって、古代史上の蝦夷(エミシ)は、その分離の途中にあり、現代的な意味でのアイヌでも和人でもないとするものである。

この埴原の見解は、歴史学の立場からの高橋富雄・工藤雅樹らの考えと基本的には共通し、互いに補強しあうかたちとなっている。