岩手県の美術工芸を語るとき、清衡・基衡・秀衡・泰衡の藤原氏四代にわたって築き上げた平泉文化なくしては語ることができない。平安時代の美術工芸の粋を結集して開花させた平泉文化は、金銀螺鈿をちりばめた華麗な荘厳にその最大の特徴があり、「皆金色」「黄金文化」という言葉に代表される。

平泉文化の美術工芸的研究は、古くから美術史学の立場からの、この華麗盛大な皆金色美術品の実態の解明に向けられてきている。さらに、これらの美術工芸を生みだした黄金文化そのものを成立せしめた政治的・経済的な背景の解明や、平泉文化が12世紀の中央の文化を鮮やかに反映しているとの立場からの、両者の美術工芸の類似性ないし独自性を具体的に究明しようとする試みが現在まで続いている。

平泉文化の現存する美術工芸の多くは、中尊寺、毛越寺に所在し、なかでも中尊寺のそれは群を抜いて多い。中尊寺金色堂は、光堂とも呼ばれる阿弥陀堂建築様式の方三間の小堂で、木造建造物の内外に金箔を貼りつめている。しかも金色堂は、金箔を貼ることだけで荘厳されているのではなく、堂内には、4本の内陣の巻柱をはじめ、須弥壇の各部に至るまで、金蒔絵や螺鈿、透彫金具が施され、瑠璃をちりばめて蝶や宝相華、孔雀、仏像などの文様が隅から隅まで埋めつくしている。まさに建築・漆芸・金工・彫刻などのあらゆる技法を結集してつくりあげた美術工芸の宝庫である。

戦後まもない1950(昭和25)年3月、考古学・歴史学・医学・人類学など広い分野の専門家が参加し、中尊寺金色堂の学術調査が実施された。この学術調査の成果は、藤原氏4代の遺体調査結果を中心に「中尊寺と藤原四代」として報告されたことにより、全国的な注目を浴び、その後の平泉研究の機運を大いに高めていくことになる。美術工芸的研究分野への影響では、同年の文化財保護法の施行とも相まって、平泉に遺存する新たな指定文化財の紹介や研究が相次いだことにより、平泉文化のもつ奥行きの深さ、豊穣性を改めて知らしめることになった。

仏教考古学の大家石田茂作博士は、正倉院は奈良朝美術の宝庫であり、中尊寺は藤原美術工芸の宝庫である、とする美術史家の言に例えて、現存する平安王朝の美術工芸としては、平泉文化ほど総合的なセットとしてすべてを具現しているものはない、と主張する。

奥州藤原氏が京から移入し、摂取した仏教文化の裾野は広く、当然のことながら最新の仏像を数多く制作した。東北地方における古代仏像彫刻の研究に優れた業績を残した久野健は、「東北古代彫刻史の研究」で、中尊寺を中心とする平泉の12世紀の仏像彫刻が様式的に中央のそれと時間的な差異がないとし、藤原三代における造仏が中央の仏師に依存していたことを指摘した。平泉文化以前の、一本彫を受け継いだ、鉈彫と称される独特の彫法を特色とし、ケヤキ・カヤなどを素材としていた東北の仏像彫法の伝統の中に、突如として、当時都で一世を風靡していた優美で繊細な定朝様式と呼ばれる、寄木造りでヒノキを素材とする仏像が出現したのである。この京風の徹底は、藤原氏の政治権力があえて必要として行ったことであろうが、その必要性とはどのようなものであったか、やはり今日的課題として残されている。